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渋谷:地廻り経済の要衝 江戸時代は場末の町2024-04-23

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昔やれたことは今でもできる 逆に昔やれなかったことが今できたりする
負けてばかりさ それでも負けるんじゃねえ

江戸の歴史

Text:澁谷直道

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■渋谷:地廻り経済の要衝、江戸時代は場末の町

江戸時代には武蔵野の開発が盛んに行われたが、こと渋谷の地に限っては大規模な開発はなく、江戸の繁栄にしたがって自然な発達をなしてきた。特に明暦三年(一六五七)の大火の後、江戸の町は次第に拡大され、渋谷地域も市区改正の大事業を受けてこの拡大期に成立している。  そもそも江戸は八百八町、あるいは四里四方と呼ばれ、その範囲は定かではなかった。町は町奉行、寺社は寺社奉行、村は代官が支配し、行政区画として江戸の領域を明確に設定する必要はなかったことによる。そこで文政元年(一八一八)、江戸を内と外に分ける朱引が行われた。その結果、渋谷地域は大部分が江戸朱引内に含まれていたが、江戸時代の初期、または中期までは渋谷は江戸の外側、もしくは接点に位置し、江戸の発展とともに府内に取り込まれていったと考えられる。

渋谷の地はもともと、江戸近郊農村の特徴を持っていた。江戸地廻り経済を担い、その中心となったのは野菜や米穀だ。渋谷は地理的条件から、地廻り経済においても農村と市場の二つの要素を兼ねていた。町家の発展と武家地の拡大により耕作面積は急激な減少を避けられなかったが、それでも農民は耕地の効率化を図りながら生産を営んでいた。  一方、渋谷には道玄坂町、広尾町、青山久保町にそれぞれ青物市場が置かれ、問屋が存在していた。株仲間を組織した青物問屋は集荷と販売を独占し、生産者の直売は認められていなかったことから、野菜生産者との対立を招いた。問屋側は生産者の立売り禁止を町奉行所に出願したところ、問屋の規制による立売り許可で一応の決着はついた。が、農民は反対訴願を行い、結局は農民の直接販売が容認されている。  

米穀については、大阪から流入してくる下り米と、関東近郊からの地廻り米による集荷が行われていた。下り米問屋が日本橋に集中したのに対し、地廻り米問屋は江戸周辺に散在し、渋谷では幡ヶ谷村、広尾町、宮益町、道玄坂町、青山久保町において見られ、問屋と仲買を兼ねるところもあった。  さて、江戸市場へ供給される米穀は、次第に地廻り米が下り米を圧倒するようになり、江戸市場への進出を図る在方米穀商人と、江戸米穀市場の株仲間米穀商との間では争いが頻発し始めた。幕府としても米穀の流通に関して機構の再建を必要とされたが、対抗勢力がともに存在する渋谷地域に限っては、複雑な状況をつくっていたようだ。  

また、地廻り米問屋らから玄米を仕入れて精米する舂米屋も仲間を組織し、小売りも行っていた。その舂米屋の下請けを担っていたのが、本来は在方農民の自家米の賃舂きを仕事にしていた水車稼農民だ。特に渋谷川沿いの地区で盛んで、天明七年(一七八七)、大阪で発生し、江戸へも飛び火した庶民が米屋を襲った天明の打ち壊し事件では、広尾の水車が襲われている。